|
|
「タラウマラの村々にて」を作って (「風の学校」ニュースレター記載より/2002年7月) |
|
中田章子さんからなぜこの映画を作ったのか、なぜあんなメキシコの山奥まで何度も通ったのか、「書いて」と頼まれた。わたしも、なぜなのかと、この機会にじっくり考えたが、その理由は本当にたくさんあった。
きっかけは、わたしは、「井戸」に愛着を持っていた。夏にスイカや食物を冷やしたり、そうめんをさらしたりした井戸水への愛着。その、子供のころに親しんだ家の井戸が涸れてしまったのが、30年ほど前であった。高速道路ができて、地下の水脈が変わり、井戸は涸れてしまった。涸れてしまった井戸水への愛惜が、心の底にあった。
二番目の理由は、「先住民」の住んでいる地域で、しかも「岩盤地帯」ということであった。これは、わたしが映画の仕事で行ったロケ先と関係があった。角川春樹監督の「天と地と」という映画の撮影で、カナダ先住民の住む地域で働いたことがあった。エキストラに多くのカナダ先住民が、鎧をまとった日本のサムライ兵士に扮して、馬にまたがっていた。これは先住民を優先的に雇用するという条件で、この先住民の居住地をロケに借りていたからだったが、「アル中の先住民が、また馬から落ちた」という報告がカナダ人の助監督から時折あり、複雑な気持ちにさせられた。
また、もっと個人的には、アメリカのナバホ先住民の友人がいて、先住民の居住地での話をたくさん聞いていたというのがあった。
「岩盤地帯」というのは、蔵原惟善監督の「ストロベリーロード」という日系移民が北カリフォルニアの岩盤地帯を開拓して、農業をする物語の映画化の時に出会ったテーマであった。火薬を仕掛けて、岩盤を割って、荒地を畑にしていく過程が撮影されたが、劇映画ゆえにその岩盤はあくまで見せかけであって、本当の岩盤ではなかった。本当の岩盤地帯とは? 想像をめぐらしたが、体感として理解できなかったので、本当の「岩盤地帯」で暮らし、畑を耕すというのを知りたかったというのがある。 だから、「メキシコ先住民が住む岩盤地帯での井戸掘り」と聞いて、とても心揺さぶられるものがあった。「井戸」「先住民」「岩盤地帯」という3つのキーワードが並び結びついたのだ。
石田恵慈さんと初めて会ったのは、大多喜の「風の学校」の事務所で、石田さんは言葉少なかったが、ものを作る人という印象があった。数週間後にはメキシコに井戸掘りのための調査にでかけるというので、急にわたしもタラウマラ山中に出かけることが決まった。日本からは、ロサンジェルス経由で、丸三日かかる、とても遠いところだったが、また、来たいと思ってしまう人々がいた。風景があった。物語もあった。
石田さんの井戸掘りの調査の拠点となったのは、ノロガッチの修道院だった。修道士のひとりで、タラウマラ語を勉強していたガブリエル修道士は、英語を話す現代的なお兄ちゃんという感じの人だったが、彼いわく、「タラウマラの人々は今だけを生きている。将来を考えない。心配しない。だからいいんだ」と。タラウマラ語の文法には過去形や未来形がほとんどないと誰かが言っていた。
石田さんの井戸掘りのための調査の過程は、とても大変なものだった。自前の車を持たず、病院の乳幼児保険プロジェクトの車に便乗させてもらって、村にたどり着く。便乗させてもらえないときは、石田さんは半日近く歩いて村までたどりついた。「おかげで道は覚えちゃった」と言うが、怒り心頭に達していたと思う。メキシコのNGOが車を手配するはずだったが、あてにできないことがわかってきたから、石田さんは単独で動くしかなかった。しかし、東北人の石田さんの怒り具合は抑制された怒りなので、メキシコの人たちにはほとんど伝わらなかったと思う。ここは、メキシコ。ラテンの国だった。しかもタラウマラ山中だった。すべての時間がゆっくりと流れていた。
1998年の秋、「ブタ水・汚れた水」という意味の名前がついた村、アグアプエルカ村で、石田さんの井戸掘りが始まった。ここでの出会いの一番は、近くに住むホセ少年だった。毎日、石田さんの住む小屋を訪ねてきた。彼は12歳くらいで、小学校は途中でやめ、お父さんの仕事の手伝いをしていた。石田さんの存在が珍しいようだった。ストーブで使う薪を運んで来たり、食事を一緒にすることがよくあった。村長から石田さんの面倒を見るように言われたこともあるようだったが、何よりも彼の素朴な人柄が、心を和ませてくれた。
タラウマラの人々は、400年前にスペイン人たちに追われてこの岩盤地帯の山奥に逃げ込んで来た。戦争がいやで逃げ込んできた人々だから、こんな穏やかなリズムを持っているのかもしれない。都会のあわただしい生活に疲れたわたしには居心地がよかった。実際、日本での映画づくりの不確かさに疲れていたわたしは、ここの人々の、余分なものを持たない、自給自足の生活に、潔さを感じ勇気づけられたのだと思う。(とはいっても、子供たちが高等教育を受けるに従って、貨幣経済の世界がタラウマラの人々の生活に押し迫っていた。過度期の現実があった。)
石田さんの二年目の井戸掘りは、バシゴッチ村で行われた。ここでは、石田さんはパルマ家に身を寄せていた。パルマ夫妻と3人の子供がいたが、石田さんは家族同様になっていた。わたしもそれにあやかってお世話になった。日本に帰るときには、必ず、今度はいつ来るのかと聞いてきた。わたしが次回の予定を伝えると、パルマ夫人たちは笑顔で頷いた。わたしがわからないと言うと、本当に寂しそうな顔をした。これは、ここに住む人たちみんなに共通したことだった。また、来よう、来たいと思ってしまう。 パンチョ神父の存在も大きかった。彼は豪快さと繊細さを持ち合わせた人で、石田さんとわたしと同じ世代だった。英語を話すのでいろんな人とのコミュニケーションの橋渡しをしてくれた。タラウマラ語を話し、村人たちの信頼を集めていた。自ら小型飛行機を操縦していろんな援助団体の人たちをタラウマラ山中に案内してきていた。2001年の春、聖週間のお祭りの時、パンチョ神父が操縦していたその小型飛行機はエンジントラブルを起こし墜落した。パンチョ神父は死んでしまった。タラウマラ山中に再度入った石田さんから、国際電話があったのは秋だった。石田さんとわたしは、半年も知らなかったのだ。タラウマラ山中がいかに遠いかを、あらためて思い知った。
同世代というのは、このプロジェクトの潜在的な大きな理由であった。石田さんとわたしは、高度経済成長を遂げる前の、素朴な日本の風景や家族の営みを共有していた。石田さんの故郷の青森と、わたしの故郷の大阪とはかなりの違いはあるかもしれないが、わたしが生まれ育った大阪市近郊は、田んぼや畑がつづく、のどかな田園風景だった。
そして、石田さんの井戸掘りを撮影していて、つくづく感じたのは、井戸掘りと映画づくりがよく似ていることだった。「ものづくり」ということでの共通点。井戸も映画も、「生きもの」という共通点などなど。石田さんの井戸を掘る作業を見つつ、映画づくりのプロセスでのさまざまな困難や面白さを、改めて思い出し元気づけられた。
「風の学校」の国際協力での、「助けることは、助けられること」という意味が、このドキュメンタリーを撮影していて、ここに登場したすべての人々にあてはまることを目の前で見たことはとても大きく、面白かった。これは私自身にも当てはまることで、「実は助けられてもいた」と思うことが多々あった。 石田さんが撮影を嫌がった時期があったりもしたが、なんとか、ドキュメンタリーが完成した。今回は、多くのスタッフが現場で働くという映画づくりとは違い、石田さんが、ひとりで、タラウマラ山中に出かけていったので、わたしもできるだけ一人で出かけることにした。現場でのスタッフ編成がないので、まるでひとりですべてやって、このドキュメンタリーを作ったかのように思われるが、実は多くの人々に支えられて出来上がっている。映画を見られた方は、最後のエンディングクレジットを見て、なるほどと思っていただきたい。そして、お世話になったすべての人の名前を載せられなかったこともご了承願いたい。 わたしがなぜタラウマラ山中に何度も出かけていったのかは、多くの理由があり、多くの人の後押しがあったからだった。
中田章子さんとは、この4年半の間に、その節目、節目で多くのことを語り合えた。 ここに書いたことはあくまでサイドストーリーであって、映画にはでてこない話がほとんどである。「タラウマラの村々にて」というドキュメンタリー映画は、石田さんが黙々と井戸を掘る話である。水不足、水質汚染、適正技術移転、NGOの働きがでてくるドキュメンタリーである。ぜひ、どこかで機会があったら見ていただきたい。
|
| |
|