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映像が連れて行ってくれる世界 大阪市女性センター・クレオ2003年5月掲載 |
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「えらい世界に入ったもんやなあ」と、母が私にむかってフトもらす。「えらい」とは「大変だ」という意味である。映画という表現の世界で仕事をやっていくことは男性にとっても大変なのに、まして女の私が挑むなんてもっと大変だという意味が含まれている。まず、映画作りの現場に入るのが大変だった。そして、入ってからがもっと大変であった。今は少しずつ変わりつつあるが、それでもまだまだ映画は男たちの世界である。
当時、大学卒業をひかえた私は、映画の撮影現場での「助監督」になるための道を探していた。しかし女性なので「助監督」にはなれないと分かり、驚いた。テレビが普及して、映画界が不況だったこともあるが、男女共学で、戦後民主教育を受けてきた私はとにかく愕然とした。映画の世界では、優しく、華やかで、たくましい女優さんたちがたくさん活躍しているのに、なんで現場のスタッフには女性がほとんどいないのか。そして女性が助監督になれないということは、「監督」にはなれないということではないか。女性には、映画作りを修行するための「場」がなかったのだ。
京都の映画撮影所で「記録」として働いている女性に会いに行ったことがある。「記録」がほとんど唯一の女性の現場スタッフというのが実情で、残念だけれども女性が監督になれる可能性はないと彼女は言った。欧米では、女性の映画監督が活躍し始めていた頃で、1970年代の半ばであった。 大学でドイツ文学を専攻していた私は、当時の斬新で元気なドイツ映画をよく見た。新人監督たちがたくさん登場してきた時期で、私はその中に女性の名前を見つけて、日本の状況もやがて変わるだろうと期待したが、あいかわらず女性には門戸は閉ざされたままだった。
アメリカの大学で映画づくりを学ぶしかないと映画留学を決意して、卒業後は大阪の小さな広告代理店に就職した。YMCAに英会話の勉強に通い、留学資金を貯めて準備をした。まわりの友人たちは結婚していき、親も「その年でなんで留学なん?」とか、「一体なに考えてんの?」と反対したが、映画をやるには日本を脱出するしかなかった。まわりには映画を勉強するなんて言えなかったし、私は28歳になっていた。 映画づくりをニューヨークとロサンジェルスの大学で学び、自主製作の映画を10本ほど作るうちに、10年があっという間に経過した。そして、角川映画の「天と地と」のカナダロケの現場スタッフに参加することになり、ようやく日本映画界との接点ができるようになる。異国の地で、日本映画の仕事ができるようになり、なんと遠くへ来たことか、ここまで来なければ日本の映画界と出会えなかったのかと、とても感慨深く、また想像していたよりも若い世代の優しい日本の映画人たちに出会えて安堵した。
この後、「ストロベリーロード」という日本映画の北カリフォルニアのロケ現場で働き、続いて初めての長編映画「ぼくらの七日間戦争2」を監督することになる。カナダの先住民の居住地帯、日系アメリカ移民の農場地帯、沖縄の石垣島へと私は転々とした。その間、落ち着いた住居に住むことなく、ホテル住まいや下宿生活が続いた。ホテル住まいというとカッコよく聞こえるが、長く続けると疲れてくる。アメリカのレンタル倉庫には、残してきた荷物がそのままになっている。根無し草のようで、かすかな不安が脳裏を横切る。映画のスタッフは現場から現場へと移動する渡り鳥のようなところがある。それも同じ場所に戻ることのない渡り鳥だ。
「ぼくらの七日間戦争2」が終わったころ、私はじっくりと日本で生活する必要性を感じていた。10年余りも留守にした日本は、バブルがはじける一歩手前で、アメリカ以上に物が溢れ、生活感の希薄な国に見えた。が、それでもまず生活してみることにした。東京と大阪の往復が始まり、仕事場を東京に、老いた両親を大阪に、根を張るどころかあわただしく落ち着かない生活となった。
いざ日本で生活してみて痛感するのは、女性が映画を作るための障害の多様さである。男性監督たちのほとんどは、妻たちの支えによって、家事、育児、親の介護などに煩わされることなく、映画に没頭できる。まず、「絶対的な時間」の問題がある。他のアジアの国々で、女性の映画監督が多いのは、彼女たちが家事労働から解放されているからである。家事を代行してくれる人たちがいるからだ。今の日本で、女性である私は期待されることが多すぎて、それに答えようとして疲れてしまうことの繰り返しである。私も「家事の代行人」がほしいと切に願う。
映画の歴史はわずか100年余りで、新しい世界なのに、なぜ女性が参加できていないのか、という大きな理由のもうひとつは、映画自体が持っている「パワー」を男性たちが知り尽くしているからだと思う。映像は大きく思想をコントロールする「パワー」がある。そしてあまりにも面白いので女性には手渡したくなかったのではないか。世界で最初の劇映画の監督はアリス・ギーというフランスの女性だったのに、映画産業としての構造が確立され、大資本が動くにつれて、いつの間にか女性が排除されていった。 ともあれ、その映画を作る世界で私は模索をし続けている。近年はブラジルとメキシコへ出かけてドキュメンタリーを作った。劇映画の企画をいくつか流したり、また流れたりした後に、再び日本を飛び出すことになった。
ブラジルでは、ODAの母子保健プロジェクトで出産のビデオを作った。出産の経験のない私は、出産する女性たちと生まれてくる赤ちゃんを撮影しながら、なぜもっと早くこのような貴重な映像を見ることができなかったのかと不思議である。快楽としての性の映像はたくさんあるのに、生まれてくる性の映像は隠されていた。誰が隠していたのか、考えなくてはならない。出産を撮影して、あらためて女性の素晴らしさを目の当たりにしたからである。
メキシコでは、先住民が暮らす山岳地帯で井戸を掘る日本のNGOの活動家を追い、「タラウマラの村々にて」というドキュメンタリー映画にまとめた。草の根的な国際協力と異文化の交流に惹かれて撮影を始めたのだった。4年という歳月がかかっての製作になったが、効率性を追求するだけの映像とは一味違ったものになったと自負している。
映画を作ることで、いろんな場所に出かけるが、それは地理的にも、思考的にも、感情的にも、旅をすることとなる。たかが映画、されど映画、その映画は私をいろんな世界へ連れて行ってくれる。もっといろんな視点の映画が作れるように、見ることができるように、女性の作り手たちの課題は大きくなるばかりである。女性の感性、意思決定力、経済能力が試されていると思う。 |
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