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第7回ソウル女性映画祭に参加して 女性情報 2005年5月号に掲載 |
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昨年の春から、東京国際女性映画祭とソウル女性映画祭が親交を結ぶようになり、今年は2年目である。
諸事情によりわたしが派遣されることになって楽しみにしていたら、出発2週間ほど前に、急に日韓関係がギクシャクしだした。竹島問題と再度の教科書問題、そして日本の国連安全保障常任理事会への参加反対などで、韓国では過激な反日デモが起こっていた。
春のソウルはとても美しく、桜、レンギョ、木蓮の花が一斉に咲きほころんで、なんともいえない華やかさと安らぎがある。しかし今年のソウルは、インチョン空港からバスに揺られて1時間半、まだ冬のなごりが色濃くて、寒々としていた。不安な気持ちでの到着だった。ソウル女性映画祭の特色は、フェミニズムとジェンダーを強くテーマに出していることである。大学で女性学を研究したり教鞭をとっている女性たちが実行委員の中心になっていて、上映作品選びなどにその主旨が明確に現れている。
シンポジウムが活発に行われていて、今年のテーマは、「Sex Trafficking in Asia and Video
Activism」(アジアにおける性の買売春とビデオ制作活動)で、インド、タイ、台湾、韓国での「性の市場」状況が報告された。フェミニストたちとセックスワーカーたち(生活のための仕事であるというコンセプトからこの呼び方がなされていて、労働条件や施設の改善を訴えている)が対話を持つことの重要性が再確認された。台湾と韓国から、「現場の声」として、セックスワーカーたちが発言し、フェミニストたちと活発な意見交換をした。敵対する関係はやめて、対話を通じて何か共闘できるものを見つけようとする画期的な試みであった。
台湾のフェミニストたちがサポートしている元セックスワーカーたちの事業や、インドの子供たちが露骨な性描写の映画ポスターと街の風俗より受ける影響への洞察、韓国の米軍基地周辺でのフィリピン女性とロシア女性による買売春産業の実態などについてのドキュメンタリーも上映された。
今年のソウル女性映画祭は、わたしが危惧した反日デモの影響はなく、その視点は、広くアジア女性の未来を見据えた多彩なアプローチを目指していて、アジアの女性たちの問題に積極的に関わろうという姿勢があった。
この映画祭では、27カ国から82本の長編・短編の劇映画とドキュメンタリーが上映された。すべて女性監督の作品である。アジアおよび欧米からのゲストも多彩に招待され、これは韓国政府からの大きな資金援助と、数多くの韓国企業からの助成金があって成り立ったものである。これはフェミニズムへの関心の高さなのか、映画市場への関心なのかきわどいところでもある。
映画は、若者に人気の地区、新村(シンチョン)にあるシネマコンプレックスの中、3つの劇場を使って上映された。プサン映画祭もそうだが、たくさんの学生ボランティアが働いていて、韓国映画における活力の実証をこんなところにも垣間見た気がした。
映画上映は以下のような8つのカテゴリーからなっていた。1.新しい潮流(最新の劇映画部門)2.若いフェミニストフォーラム 3.韓国映画の回顧上映 4.トルコ映画パノラマ特集 5.チェコの女性監督ベラ・ヒティロヴァ特集 6.フェミニスト映画とビデオ制作活動 7.アジアの短編映画及びビデオドキュメンタリーのコンペ 8.資金援助ドキュメンタリーの上映
日本からの唯一の上映作品は、ビデオ工房AKAMEの下之坊修子さんの短編ドキュメンタリー「忘れてほしゅうない」であった。小児麻痺の障害を持つ佐々木さんが、かつて強制的に受けさせられた避妊手術からの後遺症で苦しみつつも、施設を出て、自立した生活をする姿がたくましく描かれている。日本政府の優勢遺伝政策への警鐘として、広島のNPOが制作したものである。
「新しい潮流」劇映画部門では、イギリスのサリー・ポッターの「Yes(はい)」、カナダのキャロル・ローレの「CQ2(Seek
You Too)(あなたも探してる)」、ドイツのマレン・アデの「The Forest for the
Trees(木々のための森)」の3本を見た。時間の都合で欧米作品に偏ってしまったが、どれも女性監督の感性が光っていた。南アフリカとブルキナ・ファソからは短編が上映され、アフリカの「時間の流れ」を感じる貴重な体験であった。
また、「ナヌムの家」で日本でもなじみの深い韓国のビョン・ヨンジョの新作「Flying
Boys(飛ぶ少年たち)」も上映された。わたしより一日早くソウルに到着していた東京国際女性映画祭ディレクターの大竹洋子さんは、ビョン・ヨンジョと再会してとても嬉しそうだった。
映画祭中に、あっという間にソウルの桜が満開になった。そして4泊5日の日程を終えて飛行機に乗ったとたん、わたしはどっと重い疲れを感じた。どうしてこんなにも重いのかと自問するに、それは女性監督作品のテーマがどれも非常に重かったからである。たとえユーモアで包んでいても、問いかけているものは非常に重かった。これは地球の重さに匹敵する重さかもしれないし、また地球の大切な未来かもしれないと思った。 |
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